思考の縁|Kunihiro TAKEDA

バイアスがあればこそ

ある時、自分の特徴は具体的な経験から抽象的なことを学び、それを別の何かに利用することだと気づいた。

例えば、データサイエンティスト見習いのときにベイズの本を探して生態学にたどり着いたのだけど、その数年後にピープルアナリティクスをやりはじめたときに、生態学に似てるのではないかと気づくとか。

あるいは、もっと昔に新製品を開発していたときにどうやってキャズムを超えるか延々と悩んでいたのだけど、その普及曲線やキャズムの絵が様々な場面で浮かぶ。組織で新しいことを始めたときや、Chromebookの文教での普及を見たときなど。

何かしらの経験の中で悩み、もがきながら本に縋って視点を手に入れ、それを棚にしまっておく。そうすると、それが別の文脈で顔を出す。こんな感じ。

経験と抽象化とアナロジー。でも万能ではないし、飛躍もしてしまう。 それでも、少なくとも自分の中では点と点をつなげて理解することができる。

もしそれが対話の中でふっと出てくれば、その場を創発することができる。おそらくそれはよいことだろう。少なくともロジカルシンキング満載な息の詰まる議論よりも好きだ。

ただこうした発想は過去の経験に基づくものであり、圧倒的にバイアスがかかっている。 なぜなら、人ひとりの経験なんて、Wikipediaの文書量にも満たないものだろうから。

ゆえに、私の経験や着想は何かしらのバイアスがあり、平均的に優れているとは言えない。つまり、ChatGPTやClaudeよりも賢くなることはない。

しかし、そこがポイントなのだと思う。もし、社会が対話により創発されるのであれば、その対話の中で傾聴と飛躍があってはじめて新しい局面が生まれる。AIは問いに素直で賢すぎて創発できないのだ。

では、自分の中のバイアスたる抽象化された経験とはなにか。それをここで書いていく。